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「ひ志お(醤)」とは



「ひ志お」とは・・・
大豆と大麦から麹を作り、銚子の自然をたっぷり仕込み、1年以上熟成してできた発酵調味料です。
形は味噌のようですが、風味は醤油に近く、醤油の旨み成分をたっぷり持っています。
箸でつかめる「食べる醤油」です。このまま食べてよし、野菜などにつけてよし、調理に使ってよし、万能の調味料です。

麹という発酵微生物は単に味を作り出すだけではなく、健康を維持するのに役立つ力をいっぱい持ったものです。
大豆が健康に良いことはいろいろ言われておりますが、その大豆にびっちり麹が培養されて発酵熟成されたものが「ひ志お」です。

銚子は江戸時代より醤油の大生産地です。銚子の温暖な気候がひ志おや醤油が発酵熟成するためには最適な条件です。
暖かく、夏涼しく、昼夜の寒暖の差が小さい自然は麹にとって大きな力になります。銚子はひ志おにとって最適な自然環境なのです。
ひ志おはこの自然をたっぷり吸い込んだ発酵調味料です。

江戸時代後期に書かれた当時の旅行ガイドブックには、銚子のお土産物として山十のひ志おが掲載されていました。
江戸の昔から山十のひ志おは銚子の名産品です。

銚子の醤油屋さんは江戸時代に隆盛を極め、その工場で働く職工さんは仕事の性格上、多数住み込みで働いておりました。
どこの醤油屋さんも職工さんのため食事を賄っていました。そしてその食卓にはそれぞれの蔵自慢のひしおが用意されていました。
ひ志おは醤油屋で働く人々には欠かすことのできないおかず調味料でした。

 



ひ志お(醤)のルーツと未来について



ひ志お〔醤〕のルーツとその未来

 

         株式会社銚子山十 醤司室井房治

 

はじめに

暖流(黒潮)と寒流(親潮)が陸の目の前でぶつかっている海は世界中探しても銚子沖だけとの話を聞きました。黒潮と親潮がぶつかることによる自然の恵みが大地に降り注がれている地球上で唯一の街が銚子であるということは、私にとって大きな発見でした。銚子ではこれらの海流から影響を受けているのは単にすばらしい自然の恵みだけでありません。人も文化も産業もみなこの親潮と黒潮に強く影響を受けています。とくに、江戸時代から今日まで銚子の産業の柱である醸造業(醤油屋さん)も黒潮と親潮のおかげでその隆盛を支えることができました。黒潮に乗って銚子にたどり着いた紀州の人々により、醤油屋さんが興され、醸造に適した銚子の自然をたっぷり吸い込んだ良質の醤油を造り出し、利根川の水運により活況を呈した物流機能を活用して、銚子の醤油屋さんは江戸時代から活況を呈しておりました。そして、江戸の昔から、各醤油屋さんの食堂では、工場特製のひ志おが食卓を飾っておりました。醤油造りの陰に隠れて目立ちませんでしたが、日本人が万葉の昔から使っていた発酵調味料であるひ志おを、各醤油屋さんは食堂でのおかず味噌として造っていました。その一つ銚子山十でもひ志おを江戸時代より今日まで細々と造り続けていました。本稿では、このひ志おについての歴史や作り方、味わい方などを説明いたします。なお、この文章では「ひ志お」という言葉を使っておりますが、一般には「ひしお」あるいは「ひしほ」と記すべきと思います。しかし当社で江戸時代より「ひ志お」と表示しておりますのであえて志の文字を使います。

 

①漢字からわかる「ひ志お」

「ひ志お」とは当社の固有名詞、商品名ではなく、普通名詞であります。漢字で書けば[醤]です。訓読みで「ひ志お」、音読みで「しょう」、中国語では「じゃん」となります。漢字から意味することは穀物を発酵させた調味料ということになります。

  

②「ひ志お」のルーツについて

「ひ志お」が初めて記録に出てくるのは、中国の古代王朝、周(紀元前722~481)の時代です。周の法制度をまとめた「周礼」の中で「ひ志お」に関する記述を見つけることができます。それによれば、中国の宮廷では皇帝の膳に添えるため百二十種の「ひ志お」が用意されていたとのことです。これは、単に塩漬けの保存食品、副食品といったものではなく、調味料として使われていたと考えられます。またその時代生きていた孔子(紀元前551~479)はかなりグルメだったといわれています。なぜかというと、「論語」のなかで「色が悪ければ食べない、匂いが悪ければ食べない、良く煮えていなければ食べない、旬のもの以外は食べない、正しく切っていなければ食べない、料理にあったひ志おがなければ食べない」といったことを述べております。ここでいわれている「ひ志お」は魚や鳥、獣の肉、果実などの原料を塩漬けにして酒を加え、瓶に入れて100日間ほど熟成させたものであったようです。このように中国では紀元前の昔より発酵調味料が存在し、使い続けられてきました。

 

③「ひ志お」の日本への伝来と発展について

日本の文化の多くは、大陸からの輸入文化を基礎に発達したものであるから当然食文化の魚醤や肉醤も大陸から伝わってきたものと考えられます。大和時代には、発酵調味料は日本でも存在していました。ところが、538年に仏教が伝来すると、国内では獣類や魚類の殺生が避けられ、魚醤や肉醤は正式な場から遠ざけられていきました。701年に完成した「大宝律令」によると、宮内省の大膳職(おおいかしわ)に属する醤院(ひしおつかさ)で大豆を原料とした「ひ志お」が作られていたという記録があります。万葉の歌人長意吉麻呂が「醤酢に蒜搗き合てて鯛願う吾になみせそ水葱の羹」と詠んだ和歌のなかにある醤酢は酢味噌のようなものであったと考えられます。奈良時代には庶民の間にも「ひ志お」はかなり普及していたと思われます。ここで平安時代の貴族階級の食卓を再現してみます。主食は米であり、副食として乾物が多く、それらをお湯で戻し柔らかくして、調味料(酢、酒、塩、ひ志お)をつけて食べるのが一般的であったようです。紫式部、清少納言もひ志おを食べていました。

 

④「ひ志お」と「醤油」と「味噌」について

紀州では、1200年代の禅僧の覚心が宋にわたり修行をし、日本に戻り和歌山県湯浅町の興国寺で美味しい味噌(金山寺味噌)を伝えました。その製造過程で桶の底に溜まった液が煮物の味付けに良いことがわかり、この溜まりが醤油のルーツといわれております。しかし、この説に対しては様々な異論もあり、日本の醤油が湯浅で生まれたとは断定しがたい部分もあります。ヒゲタ醤油研究所元所長の茂木氏は著書「江戸時代の醤油業のルーツについて(その3)」のなかで、醤油と溜まりの決定的な違いを述べています。醤油は大豆と麦を全部麹にして熟成させるが、溜まりは大豆だけを麹にする点で、味噌の製法に近いと考察されております。そして大豆や麦など原料料を全部麹にするのか、一部のみを麹にするのかは醤油のルーツを考える上で重要な要素になると指摘しています。「ひ志お」は原料の大豆と大麦を全部麹にして熟成させます。全部を麹にしていることは醤油の分類に入ります。そして重石ののせ熟成しているあいだにひ志おの間からじわっと湧き出てくる液体「源醤」があります。これこそが醤油のルーツではないかと私は考えております。

 

⑤「ひ志お」はどのように作られるのか

「ひ志お」の原料は大豆と大麦と塩です。煎って二つに割った大豆から皮を全部取り除きます。精麦した大麦を水に浸したあと、大豆と混ぜ、圧力をかけずに蒸し、そして、適温まで冷ました大豆と大麦に種麹をいれ、四日間かけて麹をつくります。出来上がった麹に塩水を加え、重石をのせて約一年じっくり熟成させます。出荷する直前に、熟成したひ志おと水飴を混ぜ若干の味付けをして完成です。一切の調味料、防腐剤などの添加物は含まれず、銚子の素晴らしい自然をたっぷり吸い込んだ発酵調味料であります。

 

⑥「ひ志お」のこだわりと、その特徴

冬温かく、夏涼しい醸造に適した銚子の風土だから美味しい「ひ志お」ができるのです。また一年近い歳月が必要なのです。ひ志おには銚子の自然がなくてはならないものなのです。人工的な調味料では味わえない奥のふかい、発酵から生まれた風味です。こ風味が本来日本人の持っていた味のベースなのです。漬物、塩辛、押し寿司みな発酵の味なのです。

 

⑦「ひ志お」の美味しい食べ方

きゅうり、にんじん、セロリ、大根など生の野菜につける調味料としてのご利用が一番多いと思われます。若いお客様から教わった食べ方として、マヨネーズとひ志おを混ぜて調味料として利用する方法があります。目光の唐揚げにつけてたべると絶品です。料理人の世界での使われ方を紹介いたします。鎌倉の鉢の木という会席料理のお店では、里芋を湯掻いて、焼きその上にひ志おを乗せてお客様に出しています。鎌倉時代の武家社会の料理の一品です。中華料理の回鍋肉やマーボ豆腐の隠し味として多くのプロの方にご利用をいただいております。ただ、ひ志おが美味しいと思うのでなく、「ひ志お」をつけることにより、使うことにより素材の味を引き立て、料理が美味しくなればいいのです。「ひ志お」はあくまで黒子なのです。

 

⑧「ひ志お」の醸造元山十の歴史

創業は1630年(寛永7年)となっております。この年号は創業者岩崎重治郎が紀州広村で山十を創業した年です。銚子には1708年宝永5年に開業したとの記録があります。銚子に進出した多くの紀州出身者の一人として、銚子で事業を興しました。岩崎家は江戸、明治、大正と銚子で醤油醸造業を手広くおこない、地域社会への貢献も大きい事業家でしたが、昭和の初期事業に行き詰まり、銚子を撤退しました。そのとき私の祖父が山十を引き継ぎ現在に至っております。ひ志おの製造は江戸時代より途切れることなく続けてきました。江戸の昔から商用などで銚子に来たお客様に各醤油屋さんは手土産としてひ志おと鰹の塩辛を渡したそうです。各醤油蔵ではそれぞれ自慢のひ志おを作っていました。当然山十でも自前のひ志おを銚子名産と称して製造しておりました。

 

⑨「ひ志お」がなぜ生き残ったか

理由は簡単です。大量生産をしなかったからです。細々と造っていたから生き残ったのです。製造に時間を必要とする発酵食品は、大量に作れば作るほど在庫を抱えます。そのため、近代の工業経営にはなじまない製品なのです。儲けることを犠牲にして製造を続けることが、ひ志おの製造を継続する条件になってくるのです。そこで私どもは今でも昔と同じ道具を使い、同じ方法でひ志おを造っています。だから生き残ったのです。

 

⑩「ひ志お」の未来について

今日人々は様々な観点で各自の価値観が転換をしています。食文化でも同様の変革が起きております。化学調味料の味に馴染んだ多くの人々がここにきて昔から日本人の味の原点であった発酵の味に回帰しています。とくに都会に住んでいる人々ほど発酵から作り出される味、自然の味を求めるようになりました。その方々を満足させる調味料の一つが「ひ志お」ではないかと考えます。銚子は自然に恵まれ豊富な魚介類、農産物を生産する首都圏の台所であります。そしてこれらの素晴らしい食材を調理するとき、日本人誰もが使用する発酵調味料「醤油」の大生産地としてもその名声は響きわたっております。私たちの造っている「ひ志お」もこれらの食材をおいしく食べるための銚子産の発酵調味料のひとつとして今後ますます注目を集めていくと確信しております。銚子で生産される美味しい魚と野菜を、自然の素晴らしい銚子の空気をたっぷり吸い込んだ発酵調味料を使って作る料理を食べるために多くの人々が銚子に押しかけてくることを夢に見ております。

 

この夢を膨らませていくため「ひ志お」造りにますます励んでいくことをお誓いいたします。